冷たい雨がつむじに雨雨 | 鰹節の削り場

冷たい雨がつむじに雨雨

 僕の血反吐は広がり貴方の
 せめて足元届いて欲しい
 タッチミー確かめてタッチ
 僕の足は折られてしまうよ
 タッチミー確かめてタッチ
 暗闇の中這いずりタッチ・・・・・・・・
 何時ぞやに覚えたか、名も知らぬ歌詞の断片を唐突に引き出し、足りない部分は構想して補ったものにメロディを乗せ鼻歌にする。上手いか下手かも分からぬ僕のメロディは、打ちつける土砂降りによって掻き消される。ブロック調の地面に雨水が層をつくり、それをぴしゃぴしゃと音を立てながら革靴の底で水を弾き返す。傘も差さずに歩いたものだから、旋毛から爪先まで季節の雨が僕を叩き潰そうとしている。お陰で折角クリーニングに出したばかりの栗毛色のコートが、すっかり焦げ茶色になってしまった。特に気に入っていたわけでもなしに、ああまたクリーニング行きかなどと楽天的なことを考え、ポケットでひと際重みを感じさせる携帯電話が、右足を出す度衣服の伸縮で圧迫され、剥き出しのボタンに勝手に触れていく。一瞬だけ緑色に明るくなるその画面には55555と特定の番号だけが連なる。もう慣れた、いちいち確認をするほどヒステリックではない。
 雨は弱々しくもがたがたと小刻みに震えるまだ幼い犬を襲っていた。毛並みはもう十分に濡れ、目を不必要に輝かせながらシャッターを下ろしたパン屋のビニール屋根に直接濡れるのを避けるぐらいの申し訳程度で雨宿りをする。段差があるそのところに、水の層が波のように揺らぎ入り、時折犬の足元に侵食する。それが堪らないのか、犬はよりいっそうがちがちと震え、何でもいいから引き取られて早く暖を取りたいと言わんばかりにこちらをじろりと見る。ごめん、俺のアパート、犬、駄目なんだ。心の中で謝ろうとあの犬が逸早く暖を取れるわけではない。ただひたすら潤んだ目でこっちを眺めるだけだ。そのモノクロの世界では僕は何に見える。角の生えた鬼に見えるのだろうか。脳が思考で渦巻くその間にも雨水はコートを避けてうなじに入り込む。冷たい感触が伝わってまるで鳥の肌のように毛穴が立っている。今年の雨水は少々冷たい。毎年感じることだが、一年が過ぎるとまたそんな風に口走っている。曇天模様が古くからの絵画に思えて僅かながら安息を感じることが出来た。機械的に左右の足が前へと進むものだから一体どこまで来たのかさっぱり分からなくなった。だが、ちょうど右手に毎日のように見かけてはスルーをするやっているのかいないのか把握できない薄汚れたパン屋が目印となり、現在の地理情報を確保出来た。それにしても、降り続く雨で全くと言っていいほど視野が確保出来ない。そうだ、分かり易く例えるとするならば、サイレントヒルの右も左も霧に包まれて分からないようなあの世界だろうか。いずれにしても近くに対象物があれば自然と見えてくるのだからあまり困りはしないが、時折フォルクスワーゲンが僕の横すれすれに通るのは些か心持ちがよろしくない。だが、この雰囲気のお陰か否か、聳える人類の進歩というか下品の象徴と言われるミラービルディングが、いつものように太陽光に反射して市民の視力を脅かすといった事はなく薄ぼんやりとあるかないかの境目に立ち、連なるように建てられた中小ビルが防壁と砦に見えてここが古代ヨーロッパであるかの妄想が容易くなった。幼い頃に夢見たビデオゲーム以上の世界観を誇る僕だけのファンタジックな世界。遥か遠くに見え、決して近づくことのない古城が天を突くように尖り、城を頂点として山のような形のゆるやかな斜面で立ち並ぶ城下町ではレンガ調の地面をベースに、石造りだがどこか温かみのある家が左右に立ち並び、新しくない井戸の水を汲みにカチューシャとエプロンをつけた若い娘が頭に木製のバケツをのっけて歩くのを横目で確認し、花屋やパン屋や肉屋の亭主に挨拶を交わし、平らな土地の大きな噴水が目立つ広場では、城から用事もなく降りてきた道化師を子供達がちょっかいを出し、たじたじになる姿をあたかも関係のないような素振りでアコーディオンの演奏に身を投じる腹の出た親父が、無言の威圧感で僕に御捻りを要求し、腰の曲がった鷲鼻のお婆ちゃんがしわがれた手で御捻りを投げるその姿を尻目に日の暮れる橙色の町をひたすら景色を眺めるばかりに歩く。それが僕の叶わぬ夢であった。その世界で例え魔女狩りが起きたとて、ベルセルクばりの激しい戦が行われてたとて、今の僕にはもうこれ以上に完成された町に干渉する元気もやる気の微塵の欠片もない。今じゃ吐き気のするような性的な妄想ばかり思いつくようになるし、今後の自分の老いぼれた姿を悲観的な感情で考えるばかりのつまらない人間になってしまった。だが、それも時の流れだろう。罪悪感と好奇心の葛藤が絶え間なかった頃は河原に捨ててある成人雑誌が尋常じゃないほどに気に掛かり、大した内容でなくても誇大に興奮したものだが、ある程度のことに見慣れ、飽きるほどに成人というのを満喫してしまうと、河原でボロボロになった成人雑誌は単なるごみでしかないのだ。また過去の自分は、ことあるごとに自分は他の人間とは逸脱した存在でありことあるごとに他の人間にはない潜在能力を秘めている。だから今はその潜伏期間なのであるとばかり勘違いしていたが、いい具合に年をとり分かったことは、僕はこんな雨の日にも傘ひとつ差さずに町をすり歩くのが格好のいいことだと認識している人間であるということだけだった。
 弱くなったかと油断をしていたが、勢いは数時間前と然程変わらず、一粒一粒が鋭利に光り、僕の旋毛を狙うかのように突き刺し、やがてそれらは中指まで滴り落ち、層となって排水溝に流れていく。僕はまたうろ覚えの歌をうろ覚えのメロディーで口ずさむ。
 タッチミー確かめてタッチ
 僕の目はもう真っ赤に充血
 タッチミー確かめてタッチ
 暗闇の中確かにタッチ