拝啓、ハロルドロイド様 | 鰹節の削り場

拝啓、ハロルドロイド様

 一年というのは一分にしてみればとても長く感じ、一日にしてもまだ長く感じる。しかし一週間単位でくくると段々一年の本質が見えてきて、それがさほど長いものではないというのを身に感じさせる。
 僕はコメディアンになりたかった。それも最近の話ではないのだ。物好きな僕の親父さん、たまたま白黒のVHSを僕の目の前で再生したんだ。そこにはなんだか縁の目立つ丸眼鏡を掛けた兄さんが、四角い画面の中を右へ左へ駆け巡っているのである。僕は初めてみたその滑稽な男に腹が千切れんばかりに笑い、その反動で涙と涎が溢れてきて、何事かと母親が台所から駆けつけて、僕のことそっちのけで煙草の灰でカーペットを汚す父親の方に憤怒し、思いっきりフックを食らったボクサーよろしく首根っこが通常の3倍ほど伸長していた。僕はその三文劇にも大笑いし、いつしか笑いが自分で抑制できなくなり救急車で運ばれる事態にまで発展したその一連のことを心に残している。
 親父は未だにその話をするとむっと顔をしかめて、カーペットの上のビニールシートに灰を落とす。根に持っているようだ。
 後で自分で調べると、その眼鏡の青年は「ハロルド・ロイド」という喜劇役者であることがわかった。どうやらチャップリンと同列の人間であるらしい。しかし、チャップリンのどんな無声映画を見たとしても、ロイドにはどうしても劣ると勝手に考えていたのだ。
 いつしかそのようなロイドに対する憧れが強くなり、僕は喜劇役者になりたいと心底感じるようになった。小中高とその思いは水風船のように日に日に膨らんでいった。
 そうして僕は二流大学で念願の劇団に入ったのだ。別にテレビになんて映んなくてもいい。ただ、ロイドと同じ、いや、ロイドに一歩でも近づけばいいと、単純にそれだけを思って演劇同好会に入ったんだ。
「ちーす。お、坊ちゃん初顔?」金髪ロン毛の鼻と口にピアスを通し、その二つをチェーンで繋いだいかにも頭の悪そうな男がいち早く僕を迎え出てくれた。
 どうやら金髪の許可が降りたらしく僕は早々同好会内部に入れた。そこでは野生的なペッティング会場と化していた。
 見る限り、男三人ズボンを足元まで下ろし、二人はソファーに腰掛け、聳え立つ桃笠の茸を惜しみも無く見せつけており、その下に女が二人、これまたスキャンティーを下ろして少々小汚い尻を露にしている。二人とも男どもの茸を貪るのに夢中でこちらの様子を伺う気配などこれっぽっちもない。片方の容姿がましな尻に男が一人すがりつき、時折細長く汚らしい肉棒をちらちらとこちらに見せつけ、ピシャンピシャンと両者の腿肉を勢いよく弾く音と愛情表現により溢れ出た蜜の音が混じり、見るにも耐えない野性の交響楽団が繰り広げられている。嫌な臭気だ。言い例えるなら、そう。動物園。上野動物園。
 あまりの汚らしさに僕は汚らしい部室にそのまま嘔吐し、より汚らしいコーディネートをしてしまった。なんだここは、猿を都会に放してはいけないと学校で教わらなかったのか。と頭の中で問いただしているうちに、僕の左斜め横にあった金属ノブのついた壁がキイと開き、一秒後でその壁が薄汚れたドアであることに気づき、二秒後にそれを開いたのが人間の仕業であるということを認識し、三秒後にその人間を確認することに成功。茶色掛かった黒がベースのロングヘアー、二重ながらも妖しい目には魅惑のアイライン。厚くピンク色に濃い唇、上半身は下着一枚つけることなく肩にかけた読売新聞付属の野球タオルのみで、御椀型の整えられた乳房に大豆のようなものが先っぽにちょこんと可愛らしく添えられていた。次に下半身に目が移ったが、肉の良い腰にはちゃんと薄緑色のスキャンティーが穿かれていた。しかし女性の乳房を間近で見るのは初めてだったので、興味深くそれを観察していたところ、その人は缶ビール片手に、少々酔いを見せながらも僕の存在にやっとこさ気づいたようである。
「あんただれ?」と腹から声を出し、右手の缶ビールを唇に寄せ、ぐいと一口。ついでにもう二口。
「ぷはあ。サイコー。ははは」と彼女は突然に笑い出し、少しばかり中身の入った缶ビールをぽいと猿達の方向に投げ捨てた。「いてえな、馬鹿」と言いつつもその行為は止まらない様子であった。
「あのお…。ここ、演劇部…ですよね」
 彼女はがさごそと僕の付近にあった黒いビニール袋を漁りつつ、そーだよぉと気の抜けた返事をした。その間もパァンパァンと遠くから響き、チュバチュバと棒を吸引する音。
「あのお、どうしてみなさん」と言い掛けたところ、彼女は湿気た葉っぱを二枚持ち出し、僕に一枚差し出した。僕は貰ったもののそれがマリファナだというのを薄々感ずき、そっと吐瀉物に破棄した。
「つまんない話は止めて、気持ちいいよ」と彼女は慣れた手つきで紙を使い葉を巻いて、それを口に咥えて僕の目の前で器用に上下に動かす。それは僕に火を要求しているということが火を見るより明らかだった。仕様がなしにパチンコで貰ったオイル残量のすくないライターを二、三回着火する。火がつくと彼女は満足気に肺に煙を溜め、僕の眉間に紫煙を吐く。それを吸い込んだか、辺りが少しくらくらと揺れた。パァンパァン。ジュバジュバ。スーッパスーッパ。
 僕は如何せん演劇というのに夢を持ちすぎたようだ。周りにどんなに地味な部だの言われようと、そんなもの好きなだけ言わせておけと思っていたから、蓋を取ってこの状態では周りから何を言われようとやむを得ない。だからと言ってこんな屑共とロイドを、例え形式上でさえ一緒にしてはならない。僕の心に潜むBigBrotherがそう囁いたのだ。
 そして、僕は、徐に、上着を、脱ぎ、入り口の、前で、火を、つけた。