080331 | 鰹節の削り場

080331

「あら何だろ。これ」
 彼女はグロテスクな造型のお面に手をかけた。
 
 暑さの抜けない、八月中間の夜。僕は先月から付き合って間もない櫻ちゃんと夏祭りを出歩いている。
 長髪に化粧っ気の薄い彼女は、控えめな柄でありながらも、体のラインがはっきりと分かる浴衣で僕は愚か通りすがりでさえも魅惑し、こっちに来るちょっと前に、同行していた僕が彼氏に見えなかったらしくイギリス人のように目鼻の整った器量の良い男が彼女に茶の誘い(恐らく後の性交を望んでいることであろう)を受けていたのにはびっくりし、そこで承諾してしまえば、彼女とその男が楽しく夏祭りに興じ、僕が一人寂しく家に帰っていれば万事解決だったのだが、あろうことか彼女はその男の右頬を卓球のスマッシュのように打ち、同時にピンポン球を思いっきり弾き返したような気持ちの良い効果音が楽しめた。そしてその前には頬を押さえながら女座りで地べたに倒れ、涙目の男の姿が。
「あんたねえ、いくつ女と遊んでるのか知らないけど、彼氏のついてる女に声掛けるだなんて良い度胸じゃないの。顔洗って出直しな坊や」と言うとペッと奴の顔に黄痰を吐き出した。見た目によらず育ちが悪いようだ。でも櫻ちゃんの一途なところがまたいい。
 しかも、告白したのは僕ではなく、彼女である。これにはびっくらこいた。月面顔と言われた僕に一生連れ添いなんて出来るわけないと自分は愚か周囲の人間でさえ満場一致の判決を下していたのに、いつもこの子いいなぁっと遠目から眺める程度の接点で、まさにたわいない関係であった。
 ある日、技術室に呼ばれ。そして告白を受けた。「あなたの目が好き。付き合って」
 世の中はわかんないもんだ。こんないけいけどんどんのぴちぴちな子が顔面凶器と付き合うだなんて。しかしそれは悲しむことじゃなく寧ろありがたいと思うべきだろう。現にこうやって楽しんでいるわけなのだから。
 夏の夜は昼間の影響で湿っぽく、気温が抜けない。であるからにしてより肌着になり易いわけだ。つまりこうまで彼女がラインに沿った浴衣着であるというのは…。ぐふふ。
「もう、そんなにじろじろ見ないでよ。えっち」
 とぺちっと僕の頬を軽く触る程度に叩いた。可愛い。顔を少し赤くしているのところがなお可愛い。全くぼかあ幸せもんだなあと加山雄三が言いそうな台詞を口走り、櫻ちゃんはもうっと一言、それは否定の応答ではなく、寧ろ肯定を表す。
 とかく、僕らは屋台を巡り歩くと彼女は何の変哲もないお面屋に足を止める。
「あら何だろ。これ」
 彼女はグロテスクな造型のお面に手をかけた。よくB級映画で見られる悲劇の源のような人間の血管を浮き上がらせたようなゴリラの表情に顔の筋肉をむき出しにしたとうか、ともかく説明がつきにくいが悪魔か何らかをモチーフにしたものだろう。とても子供達が親にねだって買うような可愛らしいお面の類いじゃない。とんだ物好きが悪戯半分で買っていくかいかないかぐらいの購買層を問うような奇妙なお面だった。櫻ちゃんはそれに途轍もないほど興味を示し、おもむろに引っ手繰ると、まだ買ってもいないのにそれをつけ始める。
「ばあーがおー。びっくりした?」と調子に乗る。全く可愛いもんだからと苦笑い。
「ははは。はは、あ」と櫻ちゃんはお面を取る仕草をする。しかしまたふざけているのか、いつまで経っても取る気配がない。
「はは。もういいよ」と僕が声を掛けて上げるが、櫻ちゃんの反応はなく、しかも明らかに様子がおかしくなっている。すると櫻ちゃんとお面との隙間が埋まり、いつしかお面自体が彼女と同化し首筋が浮き出て、依然として呻いたままだった。
「さ、櫻…ちゃん?」その場に蹲った後、ぴくりとも動かない。恐る恐る近づくと彼女は突然俊敏に立ち上がる。
「パパぁーあのお面買っ」とたまたまお面屋のキャラクター物をねだっている女児の左手人差し指を彼女は片手で掴み、曲がっちゃいけない方向に曲げる。ぎいやあああああああ。女児は出来る限りの高音で悲鳴を上げる。それに伴わずに彼女の手は止むどころか、自身と一体化したお面の口がまさかと思うが動き出し、その女児の顔の皮を、鋭い歯で。
 思わず目を伏せた。その直後に聞こえる人間が出す音とは思えない程、身に染みる高音。
 口の周りを血液で潤滑したお面にへばり付く彼女は、肉が詰まった人形をたこ焼き屋に投げ入れて僕の方向に向かった。いや、明らかに僕に狙いを定めている。
「マッテ。マッテヨ。イッショニタノシク。タノシク」
 やめろ。来るな!ちょっと待て!ギブアップ!ノーマネーでフィニッシュ!タンマ、タン